生物学者列伝「北大の生物学を築いた研究者たち」

第1回 海藻研究者・山田幸男先生に研究の拠点づくりを見る

山田幸男先生

 1929年に完成した理学部本館は札幌で初めての近代的なコンクリート造りで、現在は北大総合博物館として活用されている。この建物の3階の廊下に「植物標本庫 Herbarium SAP」と書かれたドアがある。部屋の中に入ると大きな標本棚が並んでおり、宮部金吾氏(植物学1860-1951)、岡村金太郎氏(海藻学1867-1935)、遠藤吉三郎氏(海藻学1874-1921)、そして山田幸男氏(海藻学1900-1975)と、日本の名だたる研究者が収集した貴重な海藻標本が保管されている。

 廊下を隔てて向かいの部屋にはさらに多くの標本棚が所狭しと並んでおり、現在15万点を超える海藻標本が納められ、日本の海藻研究者が発表した日本固有の海藻種のほとんどのタイプ標本(脚注1)が揃っている。この海藻標本庫は「SAP」という国際的な登録略号と共に世界的にも有名で、海藻分類学の研究・教育に不可欠な学術資料であり、このことからも、北大が海藻学の一大拠点であることがうかがい知れる。この研究拠点の核を築き、日本の海藻研究の発展に貢献したのが北大理学部創設期の教授陣のひとり山田幸男先生である。

 

(脚注1)「タイプ標本」:生物の種や種内分類群(亜種、変種など)の学名を担う、最も重要な標本。基本的に、生物の新種が発表される際には著者がタイプ標本を指定し、博物館などの学術研究機関が責任を持って永久保存する。学名の適用は、このタイプ標本に基づいて決定される。たとえば、それまで1種類だと考えられていた生物が、じつは2種類を混同していたことが明らかになった場合、タイプ標本を含むほうがその学名を引き継ぎ、含まない方が新種となるわけである。なお、殻を持たない単細胞藻類などのように標本を永久保存することが困難なとき、標本ではなく図解が命名法上のタイプとなることがあり、その場合は厳密には単に「タイプ」と呼ぶ。

 

 先生が北大に赴任したのは1930年、30歳の時。北大に理学部を創設することになり、当時北大農学部教授だった宮部金吾先生が、親交の深い岡村金太郎先生の門下随一の若手研究者である山田先生を植物分類学教室担当として招聘したことに始まる。

 海藻というのは植物の系統進化を知るのに実に面白い対象であり、また海洋の生態系においても重要な役割を果たしている。しかしながら海藻の起源、生態、繁殖方法などには未だ謎が多い。
海藻は大きく緑藻、褐藻、紅藻に分類され、身近な食物で言うと緑藻は青海苔、褐藻ではわかめや昆布、ひじき、紅藻では海苔や寒天などが代表的だろう。山田先生が特に情熱を注いでいたのが海藻の分類で、自身の役目を「海藻の戸籍を作る」事であると語っていた。

 山田先生は札幌に来る前に、北大理学部に招聘された他の創設期の教授陣同様に2年間を海外で学び研究するよう命を受けた。そこで、先生はアメリカ西部に始まり、東部、そこから海を渡りフランス、オランダ、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、イギリス、オーストリアの大学や研究施設を周り、各国の海藻標本や文献を調査し、第一線の海藻研究者と交流をした。こうして知見を増やし、北大で新たに築く研究体制についての構想を練ったのである。この時に先生が育んだ海外研究者との交流は第二次世界大戦後も続き、国際的な学術活動の参加へと繋がっている。

 また、船と列車での長旅を余儀なくされる時代にあって、山田先生が各国各地で採取された標本のための海藻がどれほど貴重であったか、そして、コピー機やインターネットもない時代にあって、札幌に送り続けられた多数の専門書や論文別刷りなどがどれほど価値のあるものであったかを想像していただきたい。

 帰国して間もなく札幌に赴任すると、今度は顕微鏡などの備品調達、標本や必要書籍の充実と整理、そして、運営方法を決める連日の教授会をこなした。特に標本類の収集に力を入れ、道内各地へ採集に出かけた。こうして学び舎の充実に勢力的に働かれた山田先生を見ていたある先生が「山田先生はよく体がもつな、と思うほどお働きになった」と語っている。

 まだ遺伝子としてのDNA発見前の分類学はとにかく顕微鏡での観察が重要であり、表面的な可塑性に惑わされること無く種の相違を探り、それぞれの種の特徴を見つけることを目指していた。そのために大量の海藻を観察し目利きになる必要があった。ある学生が山田先生に観察結果について意見を求めると、どれだけの数の海藻を見たのかを尋ね、「もっとたくさん見なさい。30ぐらいじゃ少ない」と言われたそうだ。

海藻標本

 標本は多くのサンプルの観察を支える歴史ある保存方法であり、また、新種発見の証拠そのものとなる貴重なものであった。ただ、標本になった海藻では観察できない生態や成長過程を見ようとすれば、やはり現場である海での観察実験と培養技術が必要となる。

 そこで山田先生は、泊り込んで長期的に採集と観察ができる教育研究施設を切望していた。偶然にも北海道水産試験場室蘭支場が廃止されることになり、室蘭市からその敷地と建物が北大に移管され、その願いは叶うことになった。赴任して3年目の1933年、理学部付属海藻研究所が発足。これは日本だけなく世界でも最初の海藻専門の研究所であった。ここからは多数の研究報告が刊行され、後に培養技術と設備の充実により、海外からも研究者が訪れる研究施設となっていったのである。北大北方生物圏フィールド科学センター室蘭臨海実験所となった現在も、常駐の教員・院生による活発な海藻研究が行われ、また北大生の臨海実習にも欠かせない施設となっている。

 学生には「対象物を徹底的に観察すること」、「いい加減な推論、予測をしないこと」などを常に教育し、一人ひとりの卒業研究の採集旅行に共に行き、採集から新種発表までを丁寧に教えていた。

 他にも学術発展ために日本藻類学会を設立、多くの研究者の情報の発信と共有のための刊行物発刊にも尽力した。

 また、山田先生は、今で言う産業と学術の連携「産学連携」の先駆者として、北海道水産部、試験場、北大が協力して行う事業にも積極的に携わった。戦時中はカリや臭素が取れる海藻やコンブ類の増産のため、漁業関係者への講習、指導などに奔走した。また、海藻の群落である藻場は稚魚など小さな生き物が育つための大切な住処で、この藻場が衰退することを「磯焼け」と呼び、沿岸漁業にとって深刻な問題である。そのため海藻の生態研究は水産業と密接な関係があり、その研究にも従事した。

 山田先生自身、200種以上の新種や分類群の発見をしていることからも世界を代表する海藻研究者であったことは言うまでもない。しかしそれだけに留まらず、世界有数の標本収集、世界初の海藻専門の研究施設の設立、日本藻類学会の発足、刊行物発刊、そして優秀な人材の育成など、並々ならぬ偉業を遂げているのである。

 ひとつひとつの研究分野の創設と継承は先人先輩の尽力なしにはありえない。それが70年以上脈々と引き継がれ今日の理学部生物科学科(生物学)につながっている。



参考:
・山田幸男著 『わが海藻研究五十年』(1979)
・山田家正著 北海道ネイチャーマガジン『モーリー』No.17 【生物学者小伝】海藻研究ひとすじ 山田幸男先生 北海道新聞社(2007)
・杉山滋郎著 『北の科学者群像』(理学モノグラフ1947~1950)北海道大学図書刊行会(2005)

資料:北海道大学総合博物館