少し前の研究内容

昆虫の嗅覚学習能力を探る

 昆虫の学習能力の解析は、その脳のシステムとしての特性を明らかにするための重要な基盤となります。私達は、嗅覚学習に着目し、ゴキブリとコオロギを対象に、1つの匂いを水または砂糖水(報酬)と連合させ、もう1つの匂いを食塩水()と連合させる条件付け学習訓練法の開発に取り組み、幾種類かの学習訓練法を開発することに成功しました(図1)。


図1.コオロギの匂い嗜好性テストおよび匂い学習訓練に用いた装置(上)、および嗜好性テストおよび学習訓練の手順(下)。匂い嗜好性テストではペパーミントとバニラの匂い源を2つ並べてコオロギに自由に訪問させ、訪問時間の比を匂い嗜好性の指標としました。学習訓練時にはペパーミントの匂い源には水(報酬)を、バニラの匂い源には食塩水(罰)を置き、ゴキブリに自由に探索させました。

 そこで、それらの訓練法を用いてゴキブリとコオロギの嗅覚学習能力について調べました。ゴキブリでは、匂いと砂糖水との連合学習がわずか1回の訓練で成立し、3回の訓練で成立した記憶は少なくとも4週間は保持されること、また3回の訓練により成立した記憶は3回の消去訓練により容易に書き変えうることが明らかになりました。コオロギでも同様な結果が得られました(図2)。


図2.ほとんどのコオロギは学習訓練の前にはペパーミントよりもバニラを好みましたが、ペパーミントの匂いを水に、バニラの匂いを食塩水に連合させる学習訓練を行うと、わずか1回の訓練でバニラよりもペパーミントを有意に選択するようになりました。3回の訓練で成立した記憶は少なくとも1週間は保持されました。

 さらにコオロギの嗅覚学習能力について、1)記憶はどれだけの期間保持できるか(記憶保持能力)、2)同時に何種類の匂いを報酬と連合記憶できるか(記憶容量)、3)周囲の状況の違いに応じてそれぞれ異なる匂いを報酬と連合させることができるか(状況依存的記憶)、の3点について調べました。

 まず最初に、2種類の匂いの一方を水(報酬)と他方を食塩水()と連合させる学習訓練を、4齢幼虫のコオロギに5日間行いました。6週間後にほとんどの個体が成虫になってから行った匂い嗜好性テストにおいて、ほとんどのコオロギは報酬と連合させた匂いを選択しました。さらに学習訓練の10週間後のテストでも匂いの記憶は保持されていました。我々の飼育条件下ではコオロギの寿命は12-16週なので、コオロギでは一旦強固に成立した嗅覚記憶は生涯保持されると結論づけられました。この記憶はいわゆる「刷り込み」とは異なり、逆転学習訓練により容易に書き換え(または上書き)が達成されました。

 次に、14種類の匂いを用意して7組に分け、それぞれ一方を水と一方を食塩水と連合させる学習訓練を4日間行うと、その後の匂い選択性テストにおいてほとんどのコオロギは全ての匂いの組において水と連合させた匂いを選択しました。コオロギは少なくとも7種類の異なる匂いを同時に報酬と連合させることができると結論づけられました。

 さらに、明時にはペパーミントを水とバニラを食塩水と連合させ、暗時にはペパーミントを食塩水とバニラを水と連合させる訓練を3日間行ったところ、コオロギは明時にはペパーミントを、暗時にはバニラを選択しました。このような状況依存的な嗅覚学習能力はこれまで昆虫ではほとんど報告がないもので、今後このような高次の嗅覚学習に脳の最高次中枢であるキノコ体がどのように関わるのかを調べていきたいと思います。

キノコ体の層構造の解明:キノコ体は昆虫の大脳皮質?

 水波らは、昆虫の脳のキノコ体が場所の記憶や運動の高次制御に関わることを見出しました。また、福岡大学の岩崎助手らとの共同研究により、キノコ体には美麗な層構造があることを発見しました。キノコ体が嗅覚学習に果す役割についての私達の研究の目的の1つは、このような層構造の機能的意義を明らかにすることです。


図3.キノコ体の出力ニューロンには明層か暗層の一方のみに樹状突起を広げるものがあり(C)、層がキノコ体からの出力に関する機能的な単位であることが判ります。この構造は哺乳類の大脳皮質の「機能コラム」を連想させます。

微小脳の基本配線様式

 従来、昆虫の脳での情報の流れについては、個々の感覚系からの投射経路や、幾つかの特定の行動に関わる脳内経路については調べられてきましたが、脳で形成された司令を胸部の運動回路に伝える出力系の全体像が明らかになっていないために、脳の感覚?運動系の基本構成は明らかではありませんでした。

 そこでゴキブリを材料に脳の下降性ニューロンの脳内分布を詳細に調べた結果、下降性ニューロンの樹状突起は脳の非常に広い領域に分布していることが判りました。この結果に基づき、脳の各領域を、1次感覚ニューロンの投射する感覚中枢(図4ではsで表示)、胸部の運動中枢(m)を支配する下降性ニューロンが発する前運動中枢(p)、感覚中枢と前運動中枢を結ぶ連合中枢(a)に分け、その間の神経連絡についての現在の知見をまとめたのが図4です。


図4.ゴキブリの脳での情報の流れを示した模式図。脳の感覚中枢(s)と胸部の運動中枢(m)は直接または前運動中枢(p)を経由する多数の並列経路で接続されていますが、前運動中枢は連合中枢(a)を経由する階層的な神経経路による修飾を受けます。

 脳の感覚中枢から胸部神経節の運動中枢に至る神経回路には、感覚中枢から運動中枢に直接伝える経路や、種々の前運動中枢を経る多数の経路が並列的に配置されています。さらに感覚中枢からキノコ体や中心体などの連合中枢を通る経路の出力が前運動中枢に投射し、階層的な経路を形成しています。これまでの様々な研究を総合すると、直接的な経路や前運動領域を介する種々の並列経路はさまざまな反射的な行動や本能的行動を担い、連合中枢から前運動中枢へ投射する階層的な経路が学習による行動の可塑的変化を担うと言えます。
 このような並列的かつ一部階層的な回路構築は哺乳類を含む脊椎動物の脳の感覚運動経路の基本構築と似ています。昆虫の脳と脊椎動物の脳の基本設計の収斂進化は、動物が果たすべき行動課題の共通性や、そのような共通課題遂行のための行動制御システムの進化過程における類似性によって説明できると私は考えています。

光学計測法を用いた匂いの脳内表現に関する研究

 光学計測法(カルシウムイメージング法)を用いて昆虫の脳における匂い情報処理アルゴリズムを解明し、人工的な匂い検知・処理システムに応用することを目指した研究を進めています。カルシウムイメージング法とは、電位感受性色素をニューロンに取り込ませ、ニューロンの活動に伴う細胞内カルシウムの濃度変化を、光学的に捉える方法で、微小電極法によるニューロン活動の計測に比べて、多くのニューロンの活動を同時に捉えることができるという利点があります。
 この研究は(株)村田製作所との産学連携研究であり、人工匂いセンサーシステムの開発を目指した研究です。この研究に参加したいという学生も歓迎します。さらに近い将来、学習に伴って匂いの脳内表現がどのように変化するのかついての研究も始めたいと思っています。


図.ゴキブリ触角葉における匂い情報コーディング。糸球体表面の約20個の糸球体に着目し、cineol, 1-pentanol, 2-pentanolなど種々の匂い刺激への応答パターンを解析し、そのアルゴリズムを解読しようとしています。カルシウム応答の強さは色で表示しています。

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