研究内容の紹介

微小脳の設計原理の解明

 私は、小さな体での生活に適合した情報処理システムである昆虫の脳を「微小脳(Microbrain)」という概念で捉えることを提唱してきました。わずか百万個の神経細胞からなる極めて小さな脳しか持たないミツバチやコオロギなどの昆虫が、ヒトに劣らない 匂いの学習能力をもち、また、巣や餌場などの周囲の景色を記憶したり、帰巣の際に太陽の方角や空の変更パターンのコンパス情報として利用 できるのは、驚異的なことです。

 私たちは、昆虫の高度な行動の脳機構を解析を通して、「微小脳の設計原理」を明らかにしようとしています。そのような研究により、ヒトを含めた脊椎動物の脳にも適用できる「脳の共通原理」の発見と、昆虫において特異的に発達を遂げた脳機能の発見、さらには他の動物の脳との比較により脳の進化の解明に迫ること、すなわち「脳の多様性と進化」の解明を目指しています。

 私の研究分野や、これまでの研究については、「昆虫 ‐ 驚異の微小脳」(水波誠著、中公新書、2006年) をご一読ください。また、下記の総説も参考にしてください。
 水波誠(2009)微小脳と巨大脳:自然は多彩な脳を生み出した(科学、79:636‐641)

現在の研究内容

 現在の主な研究目標の1つは、昆虫微小脳の高次中枢であるキノコ体が嗅覚学習に果たす役割の解析を通して、「微小脳における学習メカニズムの解明」に迫ることです。具体的には、コオロギ、ゴキブリなどを材料として、行動薬理学、学習行動実験、キノコ体ニューロンの匂い応答の電気生理学、ゲノム編集技術を用いた遺伝子ノックイン・ノックアウト、共焦点レーザー顕微鏡を用いた組織学的研究など、多様な実験技術を駆使した統合的アプローチを進めています。

なぜ、行動に着目するのか?

 脳は動物が自然環境において適切な行動を遂行する必要性に迫られて進化してきた器官です。脳の解明のためにはまず行動に着目すべきというのが私の考えです。私たちは、コオロギやゴキブリが、ヒトに劣らない高度な嗅覚学習能力をもつことを見出しており、その神経機構や分子機構の解明に取り組んでいます。

以下、本研究室での最近の研究の一端を紹介します。

学習によるキノコ体ニューロンの活動変化を捉える

 昆虫の脳のなかで最も興味深い領域の1つが、キノコ体と呼ばれる高次連合中枢です(下記、「キノコ体の層構造の解明:キノコ体は昆虫の大脳皮質?」を参照)。私たちは、ゴキブリが「パブロフの犬」と同様な唾液分泌の条件付けを示すことを明らかにしました。また、アセチルコリン受容体阻害剤の脳内局所投与により、この条件付けにキノコ体が関わることを明らかにしました。この条件付けは、台に固定し脳を露出させたゴキブリで行えるので、匂い学習の神経機構を電気整理および薬理学的に解析するための実験系として極めて有用です。
現在、この条件付け系を利用し、学習に伴うキノコ体ニューロンの活動変化について、微小電極法を用いて調べています。この研究により、昆虫の学習メカニズムのニューロンレベルでの解明において、最先端となる成果を得ることが期待できます。


図.主な研究対象として私たちが着目しているゴキブリのキノコ体傘部巨大ニューロン。このニューロンは西野と水波(1998)により同定されたもので、キノコ体の傘部(入力部)に終末突起を広げるGABA作動性(抑制性)ニューロンで、脳半球の片側に4本づつあります。樹状突起の位置から、キノコ体出力ニューロンから入力を受け、キノコ体の傘部(入力部)での信号取り込みを抑制的に調節するフィードバックニューロンと推定されます。これらのニューロンの学習による匂い応答の変化について調べています。


図.ゴキブリの唾管神経の形態。唾管神経は食道下神経節に細胞体を持つ。

微小脳における報酬系と罰系の働きの電気生理学的及び遺伝子改変技術を用いた解析

 私たちは、コオロギの報酬学習にはオクトパミン作動性ニューロンが、罰学習にはドーパミン作動性ニューロンが関わることを明らかにしました。昆虫の脳には、さまざまな間隔刺激の学習課程を支配する「報酬系」、「罰系」が存在するのです。さらに、記憶の読み出しには、オクトパミン作動性ニューロンやドーパミン作動性ニューロンの活性化が必要であることを発見し、これを説明するため新規の学習モデル「Mizunami-Unoki Model」を提案しました。さらに、「2次条件付け」という学習手順を用いて、このモデルの妥当性を検証することに成功しました。このモデルは、コオロギが学習行動をするときには、私たちヒトと同様に、何を学習したかを思い浮かべながら行動していることを示唆しています。さらにコオロギとゴキブリにおいて、脳内のドーパミンニューロンやオクトパミンニューロンの分布を免疫組織化学的な方法で明らかにしてきました。現在、ゴキブリを材料に、キノコ体のドーパミンニューロンやオクトパミンニューロンが学習にともないどのような活動変化をするのかを明らかにする実験を始めています。
 またどのタイプのオクトパミン受容体やドーパミン受容体が報酬学習や罰学習にかかわるかをRNA干渉法をもちいた遺伝子発現阻害実験を用いて解明しつつあります。
 最近、コオロギにおいても、CRISPR/CAS9法によるゲノム改変技術を用いて目的とする遺伝子のノックイン・ノックアウトが可能となり、学習の分子基盤について飛躍的な展開が期待できる局面が生まれています。私達は、ゲノム改変技術を用いてドーパミン受容体の学習に役割についての研究を進めています。


図.Aは従来の昆虫学習モデル。Bは私たちが提案した新規学習モデル「Mizunami-Unoki Model」

予測誤差学習理論のコオロギにおける検証

  私達はコオロギの学習に「予測誤差学習理論」が適用できること明らかにしました。哺乳類では学習が、動物が予想外の報酬や罰を受け取ったときにおこるという、予測誤差学習理論が提案されています。しかしその検証は充分なものではありませんでした。私達はコオロギの学習についての詳細な解析により、この理論の妥当性の検証に成功しました。
 それでは学習に関わる脳ニューロンは、この仮説が予想するような活動を示すのでしょうか?その解明が今後の課題です。

昆虫はどこまで高度な学習を示すのか?そのメカニズムは?

 霊長類などが示す「観察学習」とは、他個体の行動の観察により、自らの経験なしに学習をすることです。昆虫にもそのような能力があるのでしょうか?私達はコオロギに観察学習の能力があることを見いだし、現在、その脳でのしくみについて迫りつつあります。今後も昆虫のユニークで意外性のある学習系を立ち上げて行きたいと思います。たとえばコオロギは「じゃんけん」(A>B, B>C, C>A)を学習できるのでしょうか?昆虫でもUS devaluationのような複雑な学習が成立するのでしょうか?


図. 観察学習の実験装置 「デモンストレータ」のコオロギには、匂いをつけた水(報酬)と別の匂いを付けた塩水(罰)を自由に訪問させる。「オブサーバー」コオロギにはその行動をプラスチックの網越しに観察させ、その後、2つの匂いのどちらを選択するかをテストする。

長期記憶形成に関わる「分子スイッチ機構」の解明

 コオロギでは、わずか1回の嗅覚学習訓練で学習が成立し、その記憶は2‐3時間保持されます(短期記憶)。4回の学習訓練を行うと、一生涯保持される長期記憶が成立します。長期記憶が成立するには、新規のタンパク合成が必要です。長期記憶はどのような分子メカニズムで起こるのでしょうか?私たちは、一酸化窒素(NO)および環状グアノシン一リン酸(cGMP)を介したシグナル伝達系がコオロギの長期記憶の形成の鍵を握ることを見出しました。NO-cGMPシグナル伝達系の働きを阻害するさまざまな薬物をコオロギに投与すると、短期記憶(学習訓練後2‐3時間までの記憶)には影響ありませんでしたが、それ以後の長期記憶の形成は完全に阻害されました。さらに薬物投与により、学習訓練時の脳内のNOやcGMPの濃度を上昇させると、通常は短期記憶しか形成されない1回の訓練でも長期記憶が成立することを見出しました。現在、長期記憶の誘導剤と種々の阻害剤を組み合わせ投与する実験により、長期記憶形成のシグナル伝達経路の詳細を明らかにしてきました。

 現在、薬理学に加え、RNA干渉による遺伝子発現阻害を用いて更なる解析を進めています。また、トランスジェニックコオロギを導入した研究を準備中であり、それらを総合し、さらに長期記憶形成メカニズムの全容に迫りたいと思います。


図.長期記憶形成のシグナル伝達機構のモデル

今後の展望

 私たちの研究成果は、いずれも微小脳の設計原理解明のための貴重な手がかりを与えるものばかりです。今後は、これらの成果を基盤に、電気生理、遺伝子発現操作、行動薬理などの技術を駆使して微小脳のシステム設計の核心に迫る研究を大胆に展開したいと思います。

水波研で研究を希望する学生へ

現在の研究室の主なテーマは
 1.学習にともなう脳の高次中枢ニューロンの活動変化の電気生理学的解析
 2.昆虫の記憶システムの行動薬理学的解析
 3.トランスジェニックコオロギやRNA干渉を用いた記憶の分子機構の解明
 4.昆虫が示す高次学習とその神経基盤の解明
 5.長期記憶形成にかかわる「分子スイッチ機構」の薬理学的解析
などです。このような分野にチャレンジしたいと希望する大学院生・卒研生を歓迎します。それ以外のテーマに関心がある学生の相談にも応じます。

 上記の研究は、独自の研究材料と独自の視点に基づき、昆虫の脳と行動の本質に迫る研究として国際的にも高く評価されており、一流の国際誌への発表を続けています。また国内はもちろん、海外のトップサイエンティストとの共同研究にも力を入れており、国内の他大学の研究室に「武者修行」に行ったり海外の研究室に短期・長期の留学をして国際的なセンスを身につける機会が豊富にあります。そのためにも英語はしっかり身に付けておきましょう。

 私たちは行動実験、電気生理、組織学、薬理学、遺伝子操作技術など非常に多彩な研究方法を駆使していますので、生き物が好きな人、生き物は苦手だが数学や物理は得意な人、手先の器用さには自信がある人、不器用だが根性は負けないと言う人、それぞれの特徴を生かせる研究テーマが豊富にあります。他大学および本学他学部・他学科から当研究室への大学院進学を大いに歓迎します。また学際的な研究も得意としていますので、生物学科の出身者以外も大歓迎です。

 水波研での研究テーマは、教員と十分に相談したうえで、学生自身が自主的に決めることになります。実際の研究も学生自身が自主的に計画を立てて研究を進めていくのが基本です。もちろん教員や先輩はいつでも相談に応じますし、特に教員は学生達が研究者として成長できるよう、常に適切な指導・助言を惜しみません。
 研究というのは、凄まじく厳しいものですが、知の地平線の拡大にささやかなりとも貢献できた時の喜びは何ものにも代えがたいものです。水波研での研究に興味のある方は、気楽に問い合わせて下さい。

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