Tsuyoshi WATANABE コラム / Column

アリューシャンダイブ

はじまり

僕は普段はサンゴの研究をしており、多くの場合、調査で向かうところはトロピカルな海だ。そんな僕のところに当時カナダのトロント大学にいたステファンからの一通の電子メールが届いた。「アリューシャンで巨大なサンゴ藻を探索するプロジェクトをやっているので一緒に来ないか、ツヨシは二枚貝の研究もしているから、きっとよい試料が取れるに違いない。現地まで来れば、後の費用は持つぞ。」という、喜べばいいのか読まなかったことにすればいいのか、よくわからない内容だった。いろいろ悩みつつも、研究室内のメーリングリストで関心のあるものを募った。そこに反応して来たのが、当時、僕のところで修士一年生になったばかりの香本だった。彼は北大探検部に属しており、まだ言った事のない北のフィールドに関心があったのだろう。彼が僕の研究室に来て言った「おもしろそうっすね。行きましょう」。僕もアリューシャンという言葉に何か特別な響きを感じていた。

準備

もちろん、言葉の響きが素敵なだけでは、大学の教官が学生を引き連れてアリューシャンくんだりまで赴く事はできない。ステファンとそのボスのヨハンの“科学的な重要性”の説明だけではなく、独自にいろいろなことを調べた。この地域に詳しい専門家や二枚貝の研究者などにも相談した。問題は、思ったよりも調査船に乗り込む場所がやっかいでそこまでの飛行機代も馬鹿にならないことであった。突如ふって湧いた研究テーマに研究費をつけられる程、当時の僕の研究室の台所事情はよろしくなかった。香本は、出発までの多くの時間を旅費と熱帯の調査では使用しないようなプロ仕様の分厚いドライスーツの費用を稼ぐためのアルバイトに費やさねばならなかった。

出発

5月30日 ダイビング道具、調査道具等を千歳空港まで送る。荷造りはほぼ香本に任せた。新しく買った僕の120リットルの大きなザックに香本が何でもかんでも詰め込んでいたような気がする。

5月31日 朝何とか準備をしてバスに乗り込み千歳へ向かう、香本はバスに乗り遅れて遅刻。大きく重たい荷物を何個もチェックインして人間もチェックイン、ラウンジで乾杯する。成田でドルに両替して、ラウンジでカレーとビール、ウイスキーで乾杯。サンフランシスコ行きのJAL002便に乗り込む。機内でワインで乾杯する。サンフランシスコに着きイミグレーションで、僕だけ捕まりセカンダリーで詰問。2時間待たされる、日本人僕だけ、なんで。シアトルを経由してアンカレッジに到着。まだ、今日だ。ホテルの迎えを頼んでチェックイン。ドイツ、カナダ、アメリカ隊と会う。隊長のカナダチームのヨハン、ポスドクのステファン、学生のアシャンヌ、アメリカマイン大学の生物学者ボブ、スーザン。その後、食事に行きビールで乾杯、最後だと思いビーフをたらふく食う。今日は食事を6回もしたそうです。

6月1日 6時にロビーで待ち合わせをして朝飯、打ち合わせ。その後、軽い昼飯を食べてアンカレッジ空港へ。昨晩に酒をできるだけ買い込んだので、各50kg3箱というのに収まらす、マイン大学のボブの力を借りる。また、手荷物をやたらと多くして乗り切る。酒を飲むのは我々だけのような雰囲気を感じる。アダックに到着。ノースマンのキャプテンのポールが出迎え(彼は良い人そうだし、酒も飲みそうだ)。火山のダン、海藻のスーザン(北大に滞在したことがあるそう)、ベントスのロジャー(彼も飲みそうだ)。船に荷済みをしてから夜9時に出航。酒を持ち込んだことを船長に言えず。そのことをボブ教授に指摘されました。船内はとても快適そうだ。中央階は大きく2つに分かれていて、クルー側と客室側だ。客室側のパートは大きな食卓テーブルと作業室、それと特別室に分かれているその後ろは後部甲板に続く。チームの隊長のヨハンとステファンは特別室でその他は下の階の船室だ。それぞれの船室には、3つのベッドとシャワールームがついている。窓はないが快適だ。

6月2日、アッツ島に向けて航走。香本は船酔いで辛そうだ。

6月3日 船の揺れが激しく食事の時以外は寝る。香本、夜ご飯食べれず心配。夜、アッツ島に到着。旧日本兵の冥福と明日からの成果を祈る。船長に言って断られたらおしまいなので、人の良さそうなコックのマイクに酒は大丈夫かなあと遠回しに聞く。大丈夫だよと答えてくれたけど。頼りのなさそうなので不安。

6月4日 朝6時に朝飯。だが暗くてダイビングは延期(かなり西に来たので時間の感覚が狂う)。8時頃に第一陣が出発。我々は、アンシャン、香本とでゾデアックに乗ってクラブサンプラーと水中ビデオでダイビングポイントを探る。なかなか砂質底が見当たらず、取れたサンプルは2つだけ。11時に本船に帰還。既にダイビング2次隊は出発。14時にダイビング出発。ウエイトが外れて、ゾデアックに戻ろうとした時に、ドライスーツのエアー弁が開いたままになって、エアーがエクスブロー。香本と船員(スー出身)に助けられる。心身共にとても辛かった。久しぶりにもうダメかもと思いました。ロジャーと香本は続行。その後、2回トライしたがトラブルは収まらず僕は中止。獲物の二枚貝は捕れず。サンゴ藻チームは大漁だった。2千年は生きていそうな群体をとって船のクレーンを使って運んでいた。皆、成果が出て明るく生き生きとしていた。彼らは夕飯後にも3回目のダイビングを行う。ドイツ人はよく働く。ステファンはもう疲れたよと顔で言っていた。1000~2000年の成長期間の見積もり。年に、0.2mmだとすると。でも、表面の形態を見ると群体の成長の仕方は、一様ではない気がするし、途中でタイムギャップがありそうだ(亀の子状の形態をしている)。我々は考えたがダイビングは中止。火山のダンに、まだ唯一成果のない我々は心配をされる。陸を歩いたら浅瀬にイガイがいたから取って来てあげようかと真顔で聞かれた。でも、その申し出を断れなかった。明日は頑張ろう。

6/5 朝7時半に朝飯。一昨日は飲まずに望んだダイビングで失敗したので、昨日は飲んだが、少し過ぎました。ダイビング1次隊が9時に出発。11時半にロジャー、アルジー、香本、渡邊でシチャゴフ湾でダイブ。デッドの二枚貝のサンプルを得る。採水。生貝は見つからず、40ポンドだったがまだ足りないようだった。はじめは潜りずらかった。湾内には、無数の薬莢と爆弾があった。ここでかつて激しい戦闘があったことを思わせる。こんなに日本から遠く離れた地でどのように死んでいったのだろうか。ちょうど、アッツ島に日本人の遺骨がたくさん発見されたいう記事がアンカレッジのホテルで読んだ新聞に出ていた。買ったばかりのビデオカメラが浸水。皆に同情される。帰って直ぐに乾燥させ、明日まで待つ。 2時半に帰って来てランチ。その後3時には、再び、ゾエアックでシチャゴフ湾のビーチに上陸、生貝を探索。見つからずに、イガイの生貝とフジツボ、打ち上げられた貝をサンプル。川の採水を得るために、川をのぼる。湖に出る。アッツこと香本が命名した。山には雪が残り水もとても澄んでいる。とても奇麗なところだ。日本とは似ても似つかないところだが、この奇麗な景色を見ながら家族や友人のことを思い出していたのだろうか。僕がここに送り込まれていたらどうしていただろうな。帰って来て夕飯を食べてから、ロジャーあるじー、渡邊でダイビング。10時に本船に帰還後、すぐに出航。

6/6 アッツ島マスカヤー湾に午前3-4時に到着。朝7時半に朝飯。8時くらいに一次隊がダイビング。12時に渡邊、香本、ロジャーでダイブ。ジャイアントケープの中をダイビング(ウエイトは1ポンド増やして47ポンド)。視野は昨日までと比べて遥かによかった(5メートル前後)が、二枚貝は取れず。2時に本船に帰還後、アッツ島のコーストガードを訪問。沢山の日本軍の遺品と写真が展示されていた。複雑な心境。テーシャツとショットグラスを現金がなかったのでロジャーに借りてそれぞれ2つを20ドルと10ドルで購入ここでは。十五人前後の軍人が勤務している。ビーチから基地まで送ってくれた若者は、ここは給料が一番よいから志願したと言っていた。とても暇そうだ。基地の前の海岸で死貝を採取。本船に戻り、アライド島に向けて出航。20時に到着。ロブ、ヨハン、ステファン、スージー、ロジャーがダイブング。渡邊、香本、ダンはビーチにゾヂアックで入り海岸を探索。砂州になっていて太平洋側とベーリング海が接してとてもノスタルジクな景色。両側で海水を採取。砂浜では二枚貝は破片すら発見できず。夜になって香本が僕の誕生日6/4日でした、忘れてました。というのでビールで乾杯。

6/7 7時半に朝飯、8時10分にサンゴ藻チームがダイビング、10時半に、昨日行ったビーチの近くで渡邊、香本でダイビング。作業の効率を考えてウエイトは50ポンドにした。30分もすると重くて腰とアッツ島で打った膝が痛かった。砂地を掘ったが生貝は見つからなかった。水深は5-7メートル、視野もそれぐらいだった。12時半に本船に帰還するとアダック島の港で隣の大型の調査船に乗り込んだジムが船に来ていた。アッツ島でドレッジをする予定であるので、貝がとれたらくれると言ってくれた。帰りは18日にダッチハーバーに寄港するとのこと。ただ、ジム本人は既にいないらしい。13時にリアンカー。ラック島へ向かう。夜は、香本がダイビングの時に捕獲したカレイをポールが刺身にしてくれた。醤油とわさびにつけて食べるさしみは格別だった。ヨハンが興味を持って何もつけずに食べていた。

6/8 7時半に朝飯。10時にラック島に到着。11時半から12時半まで渡邊、香本、ロジャーでダイビング。水温は6度、10-20メートルで視野も同等でとても透明度が高かった。ロジャーは新種のヒトデを発見した。我々は、牡蠣の生貝を得る。13時にリアンカー。15時にアムチャッカ島に到着。16時半から17時20分までダイビング。牡蠣の生貝を得る。香本がカレイを捕獲。僕も魚を捕獲したが、網から漏れていた。本船に帰還して採水。18時にリアンアー。カレイを調理する。コックのマイクが僕がカレイをさばくのを勉強のためにみたいといってカメラと共に見に来る。5枚に下ろす途中で、左手の親指を深く切る。その後、香本に交代。ゴッコのようなまんまるで可愛い魚も香本が捕獲していたが、それもさばいて、アフシャンに冷たい視線で見られる。夕飯の時に、あれは年をとっているからおいしくないからすぐに逃がした方がよいと必死に言っていたのが思い出される。カレイは刺身にして、ゴッコはみそを入れた汁にした。両者とも格別であった。クルーの団欒室で食べていると在アルジーがエビみたいでうまいといって食べていた。彼は、アリュート人であった。子供の頃はアザラシの肉を干して3ヶ月塩に漬け込んだものを食べていたと言っていた。24時頃、部屋に戻り酒を飲んで寝る。

6/9 6時にカワルガ島に到着。6時半に起床、7時に朝飯。朝寝をしているとアルジーが日本からメールが届いているというのでアッパーデッキに行った。山崎さんから次のフロリダの出張の手続きがうまくいっていないとのことであった。9時半から10時15分まで、渡邊、ロジャー、香本でダイビング。岩場で何も取れず。香本がカレイ。3-7メートルで視野は3メートル。昨日切った左手の親指がいたくて腕に力がはいらない。辛いダイビングだった。本船に戻って採水。水温は5度であった。11時リアンカー。21時アダック島付近を通過、夕飯の後、昨日の残った刺身で食堂で飲む。相変らず他のメンバーは酒を飲まない。

6/10 東に向けて移動。8時に朝飯、予定がないのでヨハン、サンドラ、と我々以外は起きて来ず。12時に昼飯。19時半に夕飯。

6/11 8時20分に朝飯。11時にウナラスカ島の西側シャルノフスキー湾に到着。30分間だけゾディアックで探索、ヨハン、ステファン、ダン、サンドラ、ボブ。13時半に再び移動開始。ウナラウカ島西端を反時計回りに回る。14時15分にアンカー、ゾディアックで探索。ビーチ隊に香本(ステファン、スージー)も加わり、イガイの生貝を採取。船上で採水。14時半に再び移動。17時にサービョイ湾に到着。ゾディアックで接岸。広くてよい眺めの湾だ。左前方にカーペ山がありとても奇麗だ。ここで我々は今回で初の大量の二枚貝を採取する。大型のものも結構あり種類も豊富だ。意気揚々と引き上げる。皆が自分のことのように喜んでくれた。これまで他の隊の度重なる成功を素直に喜べなくなってきていた自分の小ささを恥じる。19時半に再び移動。夜は、勝利の乾杯をするが、明日が早いので11時には寝る。
6/12 6時45分にアバタン島に到着。7時に朝食。9時から10時までダイビング。今回初めてダイビングで生貝の捕獲に成功。沢山の生貝を持ち帰る。水深は13メートル、視野13メートル水温は6度。浮上際にお腹の真白なシーライオンが近づいて来て凝視される。ビデオにとる手が震えた。後で、香本によると僕が砂地で一生懸命に掘っている背後でやはり同じシーライオンがよって来てぐるぐる回っていたという。水の中で見ると迫力もすごかった。11時に移動。12時30分にアクン島のトライデント湾に到着。ゾディアックで上陸。死貝を数個体と牛の角を3本持ち帰る。数頭の牛がビーチで死んでいた。14時35分に移動。18時にアクン湾に到着。18時半に香本がビーチ隊に参加して上陸。 19時から19時50分までダイビング。水深20メートル、視野3メートル、水温4度。風が強くポールの話だと100フィートを超えたと言っていた。時々水際に小さな竜巻が起こる。潜った底はケルプで覆われていたが、その隙間に多くの死貝が落ちていた。しばらく進んで砂場に出る。貝の破片が無数。大きめの死貝を採取。帰りはケルプに絡まって苦労した。はじめてダイビングナイフを使って絡まっている香本のケルプを切る。今日はこのアクン湾で停泊。今回は、ダイブコンピューターも電池切れで水深計も壊れ、時間も水深もわからないで潜ることが多くて結構いい加減な浮上をしてしまった。反省。最後のダイビングは少し多めに安全停止時間を確保。明日が実質最終日、とても時間が早い。

6/13 7時に朝食。いつもこの時間だと、サンドラ、ダン、ヨハン、しかいない、少し遅れてボブ。 9時半から10時20分までダイビング。20-25メートルだと思う。視野は5メートル、水温5度、デッドの二枚貝を得る。香本タコを捕る。本船に戻って採水。11時40分に移動。昼前にタコをさばく。皆、興味を持って寄ってくる。ポール、ヨハン、スージー、ロジャーが刺身を味見。サンドラも好きらしい。魚を生で食べているとすごい顔をするのにタコならまだよいらしい。よっぽどグロテスクではあるが。昼にタコを出す。残りは後でエデンが料理をしてくれる。13時にトライトン湾に到着。14時30分からヨハン、スージー、渡邊、香本でゾディアックで岸を探索。あまりよいサンプルはどちらも取れない。ダイビングポイントを初日に探索した周辺に決定。18時30分から19時までダイビング。ダイビングの前に皆でドライスーツを着て記念撮影。我々のドライスーツは皆初めて目にするものらしく、忍者ダイバーと言われていた。水深7メートル、視野も同じ。ジャイアントケルプの森だ。僕が貝を探している上を3頭のシーライオンがぐるぐる回っていたらしい。ロジャーも体を突かれたといっていた。恐ろしい程だ。本船に戻ると別隊で潜ったステファンがシーライオンに頭から突っ込まれて急浮上をしてしまったらしく、酸素ボンベを吸入する応急措置をしていた。クルーズの最後の晩餐で夕飯にポールがワインを出してくれる。ボブ、ダン、ヨハン、スージーは飲むようだ。ポールは良い人だ。ステファンが気分が悪そうなのでDANに緊急連絡を取る。明日のアクン島でのダイビングは中止してダッチハーバーに向かう。病院でレントゲン写真を撮るようにとの指示だ。ダッチハーバーでもダイビングはできると言ってくれたが、今日が最後のダイビンぐの可能性が高い。

6/14 ダッチハーバに到着する。久しぶりに見る街だ。規模はそう大きくなさそうだ。泊まるところを探しに香本と街を散策した。街唯一のリゾートホテル、グランドアリューシャンホテルはとても高そうで値段すら聞かなかった。今度は、ダウンタウンまで歩いた。香本がコンタクトを採っていたジャフというアドベンチャー会社を訪ねるためと安い宿を探すためだ。何十件かないような小さな街でそのほとんどは人が住んでいないようだった。街のシンボルはロシア正教の教会だ。白を基調とした奇麗な建物で船が入港する際にもとても目立った。ジャフのショップの思われるとことろうろうろしているといかにも車体がひどく錆び付いてこれでも動くのかという車が目の前にとまり、何か探しているのかと聞いてくれた。50代くらいの大柄な地元の女性だ。その女性の車に乗せてもらって彼女の家に行った。ジャフはとっくに店を畳んで今は、シーフードレストランで働いているはずだといって連絡を取ってくれた。シューネームがどちらもわからなかったので苦労していたが、連絡が取れて事情を説明してくれた。彼は今はテネシーにいるそうだ。この街は、ホテルもレストランもどんどんつぶれていって今はもう終わった街だと言っていた。そんな彼女自身は、島の数少ない観光スポットをカメラに撮って本を作っていると言っていた。礼を言って教会に行く。若いカップルと赤ちゃんを連れた女性がいた。内装がステンドグラスで飾られていて奇麗だった。今日は何かセレモニーがあるらしい、正装した牧師が準備をしていた。船に戻ると最後の夜のパーティの準備が進んでいた。ユニシーの工場長のダンという男子がセバスチャンとう男の子を連れて、大きなポリバケツにいろいろなカニを満載してやって来た。

6/15 レンタカー今日から陸上踏査、他のメンバー、船のメンバーと別れる。キャプテン湾に行く。途中、川を横切ったりハードな道。道の突然終わってそこでテントを張る。釣り。

6/16 途中通って来たゲートが閉まっている。ロックインされる。周りに人を捜したがいない。歩いて救いを求める。40分するところにオフィス。鍵を得る。引き返したが鍵が合わず、また、40分かけて戻る。それをなんともう一回繰り返した。最後がブルトーザーで道を造ってくれた。キャプテン湾でサンプリング、サマー湾でサンプリング、野生の馬、寒く雨が降っていたので、車中泊。夜、無数の蚊に苛まれる。

6/17 海辺でサンプリング、途中、遺跡後で2000年前の貝を採取。博物館、シッピング会社を探す。見つからずにあきらめる。サマー湾で山側でのキャンプ6/18 パッキング、 ポストオフィスに行って郵送の値段をチャック、 一箱250ドルだった(60ポンド)ので諦めて空港に持っていく。飛行機が大幅に送れる。帰りは一人なのでハンドリングを思うと大変そうだ。漸く荷物をチェックイン、4箱大きな荷物をチェックして100ドル。香本隊員を別れる。

6/19 アンカレッジからサンフランスコ行きの飛行機がエンジン故障のために途中からひきかえす。サンフランスコ経由成田行きには時間が間に合わず、乗れないことが判明。とりあえず、サンフランシスコまで飛ぶ。3日間滞在。毎日、空席待ち。サンプルは一人では持てないので、航空会社に頼み込んで、預けてもらう。ようやく、日本に帰国。後は、香本隊員の結果を待つ。

帰国後

いろいろな困難はあったがアリューシャンで採取した試料は無事に我々の研究室にたどり着いた。また、香本隊員の奮闘により遺跡から出土した試料も手に入れる事ができた。僕らは、未知なる研究対象を求めてどこまでもいく、そして、困難を乗り越えて研究試料を持って帰ります。時には未踏の地にもいくところは、探検家と似ているかもしれないし、貴重なものを持ち帰るところは、コレクターと似ているかもしれないけれども、僕たちの求めるところは、科学の前進です。知の探求です。新しいことを知るために、それが最も適していると思われるやり方で調べます。それが、自分達のところでない場合は、どんなに困難の末に採って来た試料でも他の研究者にまかせるという決断も時にはしなくてはならないと思います。そうならないために、僕らは、常に切磋琢磨をしています。やっぱり、苦労して採って来た試料は自分の手で料理したいもんね。わかるよ、香本。ごめんね。

編集後記

その後、フロリダであったサンゴ礁の国際会議でボブとスーザンに会った。二人とも元気だった。スーザンは無事に博士課程を終了できそうだとのことだった。 ボブは相変らず年を感じさせない元気ぶりだった。ステファンは、二年間のカナダ生活を終了し母国のドイツに帰っている。香本が研究室を去るとしてって船だみんなで撮った写真を送ってくれた。風の便りでは、香本は過酷な調査を生業とするコンサルト会社で元気にしているようだ。転職を見つけたのかな。東大海洋研究所時代の後輩の白井君が現在ドイツのショーネ博士のところで在外研究をしており、今頃、ドイツに渡った我々の試料と対面をしているころかもしれません。二〇十年5月17日 インドネシアスマトラ島沖船上にて。

薩摩硫黄島サンゴが語る過去から現在そして未来

年輪を刻みながら数百年間に渡って浅海で生息している長生きサンゴは海の「タイムマシーン」と言える。この海のタイムマシーンは、種々あるタイムマシーン(地質記録)と比べると時間解像度が極めて高い。工夫をすれば環境の一日の変化や季節の変化がわかる。時間解像度の高いタイムマシーンは、現在の人類や海洋生態系が直面している地球温暖化や二酸化炭素濃度の上昇、海洋酸性化といった百年スケールの問題、エルニーニョ現象など数年から数十年変動の気象現象、火山噴火や地震・津波といった短期間に起こるイベント現象をリアルなタイムで捉えることができる。我々は、このタイムマシーンを駆使して様々な時代の現象を解明すべく、これまでに長寿の造礁サンゴを求めて世界各地を調査して来た。

薩摩硫黄島での長寿サンゴとの出会いはいくつもの偶然と必然が重なった結果だった。最初は、フランスで出会った火山学者のファンファンだった。楽しくも将来の不透明感が増してきたポスドク時代の最後期。滞在していたパリ郊外の研究所で、僕は日本好きのファンファンと互いの語学を教え合っていた。彼は火山の言葉を日本語で話したかったし、僕も日本に帰れる保証はなかったのでフランス語が必要になっていた。週に何回かワインを飲みながら語学の勉強をしていた。或るとき、ファンファンは、自分が調査をしている日本の火山島でのダイビングのビデオにサンゴらしいものが映っていると言いだしたので見せてもらうことにした。ファンファンの熱弁によると薩摩硫黄島は、世界でも類を見ない海底の熱水活動から陸上の噴火活動までを同じ島で観察できる貴重な場所であるとのことだった。運良く母校に職を得て帰国した僕は、ポスドク時代に過ごした国立科学博物館に立ち寄った。その時に、たまたま当時お世話になった清川さんもそこを訪れていてパソコンで作業をしていた。その画面には真っ赤な海と火山島が映し出されていた。そして薩摩硫黄島サンゴ調査は現実のものとなった。

薩摩硫黄島の海は赤く熱かった。海底からは火山ガスが湧き出していた。通常、サンゴ礁を形成する造礁性サンゴは、共生藻類による光合成により栄養を得ているため強い光を必要とし、炭酸カルシウムの骨格を形成させるため酸性度の低い海水には棲めないとされている。ファンファンに見せてもらった水中ビデオには、確かにサンゴのようなものが映っていたが、もちろんサンゴを撮ろうとしたものではなかったので、確証はなかった。その時既に筋肉が萎縮していく難病に冒されていたファンファンは、薩摩硫黄島の調査には参加できなかった。サンゴ探索隊と掘削隊と共に勢いよく乗り込んでみたけれども、実際の僕の心は限りなく心細かった。薩摩硫黄島調査のプロジェクトリーダーの清川さんの破天荒な明るさに励まされ、悪天候の中でも船を出してくれた今別府船長や現地の海底地形を手に取るように熟知している大山村長などに何度も助けて頂きながら、調査は続けられた。透明度の悪い潜水作業で難航したが、いろいろな人の想いが通じたのか、ついに長寿サンゴを発見。あの時の感動は忘れられない。将来の海洋酸性化によるサンゴ危機と言われる状態を遥かに下回る酸性度、持続する活発な火山・熱水活動。そこでサンゴは何百年前もから生き続けていたのである。その存在自体が衝撃的でそこから得られる将来の予測は、これまでの常識を覆すかもしれない。イタリアで行われた国際会議での講演では、満員の会場からこれまでにない賞賛を受けた。帰途途中にパリ郊外にあるファンファンの墓前で手を合わせてこれまでの報告と今後の調査の発展を誓った。時に、サイエンスの発見には、人々の熱い思い入れで動く局面があるのだということを考えさせられた。現在、長い冬の真最中の北海道で、薩摩硫黄島サンゴの地道で忍耐のいる分析が精力的に行われている。(薩摩硫黄島講演会要旨より)